JFL・横河武蔵野FCの10番を背負う後藤京介が現役引退を発表した。三菱養和SCユース出身、長澤和輝や仲川輝人といった錚々たるメンバーに囲まれた専修大学を経てモンテネグロで欧州に挑戦。帰国後、複数のJクラブでキャリアを積んだのちにたどり着いた武蔵野での生活は気がつけば4シーズン目となっている。愛着のある、サッカー選手としての“終の棲家”で下した決断だった。第79回国民スポーツ大会関東ブロック予選に臨んだ東京選抜での闘いを終えて三鷹駅の北にある横河電機グラウンドへと戻ってきた後藤は、引退までのカウントダウンを数えるJFL終盤戦に向け、何を思うのか──。
転機が訪れた大学時代、そして渡欧挑戦
横河武蔵野FCの練習場から約9kmを隔てたJ1・FC東京の練習場には、後藤京介と専修大学時代チームメイトの関係にあった仲川輝人がいる。後藤いわく、ピッチの外も含めて「超楽しかった」という時期を過ごしたかつての仲間だ。その仲川は「ふざけたやつですよ(笑)」と、後藤の明るい性格に触れたあと、プレーの面については「キックが巧い選手」だと評した。
三菱養和SCユースに所属した高校時代は、まさにキックに優れたセンターバックまたはサイドバック。様々な距離のパスを蹴り分け、展開力に長けた選手だった。ディフェンダー登録で大学1年時の関東大学選抜メンバー入りを果たし、大学リーグでは前期の全試合に出場するなど順調な滑り出しを見せていた。しかし好事魔多し、「調子に乗っていた」後藤は関東大学選抜の合宿から戻ってきたあとサッカー人生で初めての肉離れを起こし、全治2カ月の診断を受け負傷離脱してしまう。そしてこのアクシデントが、選手としても転機になった。
「けがをしてから全く身体が動かなくなり、そこからもう全然試合に出られなくなってしまった。ぼくは左サイドバックだったんですけど、そのけが明けの状態だと、もうマッチアップする右ウイングのテル(仲川)に勝つのは厳しいと自覚しました。そこで、大学3年生の頃から中盤をやろうと、ボランチを始めました」
専修大学で出場機会がなかったことが、その後の進路に大きく影響した。卒業後はJクラブに加入したいと考えていたが、練習参加のオファーがあったのはJFLのクラブからのみ。しかも左サイドバックでのオファーだった。ボランチでプレーしたいという希望を抑えてまでJFLでやるべきなのか。葛藤した後藤はJリーグ以外でプロになる道を模索するべく、大学を卒業する直前の2015年2月、先輩の紹介で2015年にモンテネグロへと渡った。大学を無事に卒業したことは学友たちとの通話で知った。取得単位数はギリギリだったという。モンテネグロでは最初はFKモグレン、次にFKイスクラでプレーした。試合でのポジションはその都度変わり、固定されていなかった。
「モンテネグロ時代はすべてのポジションで起用されていました。交代選手が入る度に『おまえ、あっち行け、こっち行け』みたいな感じだったので、基本的にはサイドバックをやりながら試合ではボランチをやったりサイドハーフをやったり、いろいろなところでプレーしました」
言語や生活環境だけでなくサッカー観に至るまで、あらゆるものが日本とは異なっていた。モグレンとイスクラで合わせて2シーズン契約し、負傷のため1年半で帰って来るまで、この間の日々がプロ選手としての後藤の基盤を形成したと言っても過言ではない。
欧州と言っても国やカテゴリー、クラブによって練習や試合の環境はそれこそ“ピンキリ”。UEFAチャンピオンズリーグの予選に出場するレベルの国でもないかぎりグラウンドの質は良くもなく、凸凹していることも珍しくない。そういう荒れたピッチで、技巧派の後藤は並み居る巨漢を相手に悪戦苦闘しながら欧州に対応するプレーの仕方を身につけていった。
すべては自分次第
「(欧州の選手は)デカいというイメージしかないです。身体がデカくて、もうパワーでゴリゴリ圧されるという感じですよね。だから日本でやっているサッカーじゃ通用しないなというのもやりながら感じていました。でも、逆に日本人の良さを出せるな、という感触もありました」
体格、パワー、プレー強度で上回る、頑健な巨躯を誇る選手たちを相手に、テクニックに秀でたところが特長である己がどう立ち向かえばいいのか。後藤は頭を使い、対抗策を確立していった。特に意識したのは、相手に直接ぶつからないことだった。ガンバ大阪や日本代表で活躍した遠藤保仁が「相手の土俵に立たない」と発言していた映像を観たことがきっかけで、球際を強化する一方で、身体能力で劣る側の立場としてはそもそも球際をつくらないことが大切だと悟ったのだ。
「モンテネグロに行った時は、やっぱり周囲には求められるんですよ。球際に行け、とか、削れ、とか。もちろんやってはいましたけど、そういう局面で極力戦わず、自分の土俵でプレーするように意識しました。そういう経験を出来たこともそうですし、海外に出て、日本でサッカーをやれるというのは相当恵まれていることなんだなとあらためて認識出来たのも良かったです」
劣悪なグラウンドでフィジカル勝負が前面に押し出され、ガツガツと削り合うことが日常であるのはまだいい。それは仕方のないことだからだ。しかし給料の未払いがあるなどルールやモラル、運営面に於いて日本とかけ離れているところについては、かなりのカルチャーショックを感じていた。
「とんでもねえ国に来たな、という想いをまず強く抱きました。そういうことも含めて、日本はなんでも揃っていて仕事がしっかりしていますし、それに日本語でプレー出来るってすごく幸せなんだなとも思いました。セルビア語を全く話せない状態で渡欧、英語である程度の会話は出来ましたけど、サッカーに関する細かい要求は出来なかった。そういう経験から、サッカーをする上では自分の意見を言葉にして伝えないといけないということを学びました。言葉が通じなかったとしても意思疎通を図らなければいけないのに、日本語で言葉が通じるんだったらもっと喋らないとダメじゃないかと。そう思うようになれたのは、モンテネグロでの経験がものすごく大きいです」
自分を表現するためには結果を出すしかない。結果を出してようやく、ボールが来るようになる。ゴールを決め、ゴールをアシストし、ようやく仲間になれるという感覚があった。モンテネグロですらそれだけ厳しいとなれば、5大リーグの過酷さは容易に想像出来た。海外で闘う日本人を心の底からリスペクトするようになったのはそれからだ。「すべては自分次第」。モンテネグロでの1年半を機に、それが後藤にとって最大のテーマになった。
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