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TOKYO FOOTBALL COLUMN

「若き戦術家、山口遼の挑戦」
試されるモダンフットボールへの情熱

後藤 勝 = 文

中山雅史前監督の退任を受け、9月14日にJ3リーグのアスルクラロ沼津は鈴木秀人監督体制の発足を発表。そこには新任のコーチとして山口遼の名があった。鈴木前ヘッドコーチの監督就任によって空位となった参謀の座に収まる形で、社会人クラブの指導者からJクラブの指導者へと転身を果たしたのだ。もちろん、関東サッカーリーグ1部からJ3へと、飛び級の衝撃はある。ただ、そのステップアップの衝撃に留まらず、稀代の戦術家としても知られる彼が、監督をサポートする立場とはいえJリーグの世界に飛び込み、その能力の一端を示す機会を得たことに、俄然興味が湧いたフットボールファンも多いのではないか。

監督を務めていた関東1部のエリース豊島FCとの契約解除からちょうど2カ月での、沼津加入の報。「今年の後半は指導者をやるつもりはなかった」という山口はこの秋、新しい職場での残留争いという予期していなかったミッションに取り組んでいる。シーズン終了まで2カ月半、沼津でせわしない日々を送る青年指導者の姿に迫った。

指導者としての成り立ち

1995年11月生まれの山口遼は、若くしてモダンフットボールの洗礼を浴びた世代ではある。彼が12歳だった2008年、ペップ・グアルディオラが初めて指揮を執った2008-2009シーズンのFCバルセロナ(バルサ)に遭遇。しかし欧州からその情報が伝播するまでのタイムラグがあった期間の日本で実地に、ピッチ上でそれを体感することは難しく、現場では旧来のサッカーをプレーしながら心と頭は欧州のフットボールという分裂した状態で育ったことになる。

「自分にとってのフットボールの原点は2008年のユーロでした。同時にペップのバルサが始まり、もう衝撃をガツンと受けて。でも当時のぼくはウイングとかサイドハーフをやっていて、テクニックとか判断、駆け引きは好きだったけれど、理想のサッカーが実際の自分につながらない。そういう時期を過ごしました」

しかし鹿島アントラーズユースでのサッカー漬けから一転、受験勉強への全振りを経て東京大学に進学したあとは、再び理想とするフットボールへの意欲が頭をもたげてきた。「もう一度サッカーで食っていけるかどうか試してみたい、より自分の理想を追求してもいいんじゃないか」。ポジションはアンカーやインサイドハーフ。まず、山口はプレーヤーとしてモダンな装いを始めた。そして東大3年の時に半年間、東京ユナイテッドFCに行ったことを契機に現役引退を決断した。自身を選手として省みた時、クオリティの不足を感じたということもあるが、そもそも所属するチームやそれを指揮する監督によって方針が都度変わり、プレースタイルを一貫出来ない選手という立場に限界を感じたからでもある。

インタビュー写真:山口 遼

「誰も見たことがない、けど、誰もがこれを待っていた、と思えるようなバルサをペップは表現していた。そういう意味ではぼくも、それが今かもう少し先なのかはわからないけど、その時代に合った形で理想をモダンにアップデートしたようなものを表現していきたいというのが、プレーヤーとしても指導者としても一貫してあった」

指導者になる気持ちが芽生え、準備を始めてから1カ月も経たないうちに「たぶん、この仕事で食べていくのだろう」という予感があった。「それなら、しっかりやろうか」。この自覚が指導者としての出発点だった。大学生となったあとは、戦術的な視点を携えてピッチに入っていた。その選手の視点でモダンなフットボールをやろうと実践していた経験が、今度は指導者としての自身に照射される。芝の上での球際の体感と、俯瞰した戦術ボードの両面が融合し、ここから彼の物語が始まったのだ。

エリースでの実践

インタビュー写真:山口 遼

東大の学生コーチからヘッドコーチとなった山口は、その後、東大の監督を務めながら東京ユナイテッドでアシスタントコーチを兼任。社会人での監督初体験は、そのあとのY.S.C.C.セカンドだった。神奈川県社会人サッカーリーグ1部のこのチームからトップチームへと昇格する選手も輩出し、山口は2023年、満を持して関東サッカーリーグ2部・エリース(当時の呼称はエリース東京FC)の監督に就任。優勝での1部昇格を成し遂げた。

エリースを率いる頃になると、ペップが起こしたパラダイムシフト以降のフットボールの潮流が、山口によって比較的上位のカテゴリーで人目に触れる、ということが起こり始めた。5レーンを意識して間、間に立ち位置をとり、スペースの認知に対する解像度が高く盤上の駒のように己を律し、幾何学的な画を描いていく選手のプレーによって、モダンフットボールが表現されていた。旧来の日本式のサッカーとはまた異なる形でボールを支配する様は、観る側としても新鮮だった。「微妙な言い方になりますけど、サッカーとフットボールのニュアンスの違いというか、サッカーはやってきたものとしてあった」と、山口。指導者として培ってきた「山口遼のフットボール」の具現化だった。 

補足しておくと、かつてのエリースは社会人クラブのなかでも、もっともアマチュアリズムを研ぎ澄ませたクラブだった。しかし競争の激化に伴い2020年、創立50周年のタイミングで東京都社会人サッカーリーグ1部からJリーグ参入をめざす体制に切り替え、より競争力を高めていく道を選択。まさにその上昇していく時期に、山口の仕事が嵌まったのだ。

中村健太郎代表取締役CEOや平井聡代表取締役COOといったフロントと協力して選手を集め、グラウンドを確保する。山口が監督に就任した当初は、練習をするにも一苦労だった。しかしいまやエリースは東京ユナイテッドFC、東京23FC、南葛SCといった東京都内をホームとする有力なクラブに比肩する地位を築き上げている。その起爆剤として、2023年度の関東2部優勝があった。後期は全勝。2位に勝点で9、得点で18、得失点差で23の大差をつけての独走は鮮烈な印象を残している。ただそれだけ強いエリースにしても、1部で勝つことは容易ではなかった。そもそも、編成の時点で優位に立つことが難しかった。

インタビュー写真:山口 遼

「関東1部となってくると、関東リーグ内での選手獲得競争だけでなく、全国のトップレベルに位置する他の地域リーグのクラブとの獲得競争もあり、2部に比べると体感で3、4倍競争相手のチームが増えます。出せるお金も異なりますし、プロとして選手を獲り始めた歴史の浅さはボトルネックになってくるだろうと予想はしていましたが、現実問題として厳しかったですね」

1部に昇格した初年度の2024シーズンこそ10チーム中7位で残留を果たしたが、今年は降格危機に陥り、7月14日付けで山口はエリースとの契約を解除、退任することになった。アマチュアレベルの監督では本来、現場のチームを見る部分の割合が多くを占めるが、セミプロ、プロになると組織が大きくなり、クラブの事情も鑑みた総合的なマネジメントの力も問われることになる。戦術以外の様々な要素が最終的な勝敗に結びつくことを初めて実感しつつ、戦術だけでは勝てない難しさに直面する日々だった。

「強化部や社長とコミュニケーションをとり、関係性を保ちながら、監督としての役割、責任をどう果たしていくか。選手が多く入れ替わったり、クラブとしてもいろいろな事情を抱えて、より厳しくなっていく関東リーグをどう戦い抜いていくのか、それはマネジメントの側面も含め、すごく難しかったです」

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